2020.07.12源庫

怒りと気づき

怒りは、物事をつまらなくするエネルギーだ。
それを向けた何かや誰かを否定し、破壊しようとするエネルギーだ。
怒りの本質とは、対象に「ノー」と言うエネルギーだ。

怒りはその意味で、生命と逆行し、自然と逆行する。
というのも生命および自然とは、調和であり、活力であり、成長であり、まさに「イエス」と言う喜びのエネルギーだからだ。怒りはこれに真っ向から逆らう。故に怒りは、本来の生とはかけ離れた、まったく不自然なものだと言える。

怒りは、世界を問題だらけの不満なものにする。怒り続ける人の生は、不備、不快、不当でいっぱいだ。
身近な誰かに腹を立てるのも、政治に腹を立てるのも、カーペットの柄に腹を立てるのも、贔屓のチームの成績に腹を立てるのも、集中を妨げる人や物音に腹を立てるのも、すべて、その対象をつまらないもの、間違ったもの、嫌なものにする。
怒るほど、世界は暗く、不愉快になる。怒りに染まるほど、心は荒み、頭は固くなり、身体は病気になる。
にもかかわらず、往々にして人は怒りを正当化する。とりわけ、それが「正義」と結びついた時、怒ることは、少しも馬鹿げたことではなく、むしろ当然であり、必要であり、よいことであるとすら考えるようになる。そうなると怒りを止めるものはない。人は、暴走した正義にとらわれ、怒りの中毒になる。
だが、どんなに正当化しようとも、怒りが生命や自然に逆行し、自他の健康を損ない、世界を暗くすることは変わらない。それがどんな状況で何に対するものであれ、怒りは常に否定と破壊のエネルギーを内包している。というより、殆ど、そうした負のエネルギーそのものだ。抱え続ければ、すべてが傷つき、壊れていく。

しかし、そんな不毛で破壊的なものであっても、怒りは実際、あなたの中に現れる。健やかな生命に逆らう不自然なものだからといって、それを無くそうと、抑圧したり、否定したり、見ない振りをしても、あるものはある。様々な物事があなたの怒りをかき立てるし、これまで閉じ込めてきた怒りの貯金も内側に潜伏している。怒りを心深くに押し込んでも、消えることなく腐乱するばかりで、生はますます不自然で不健康になる。

怒りに対する適切な方法は、抑えつけることでも否定することでもなく、それに気づくこと。そして、気づいたら見つめることだ。
暮らしの中で、怒っている自分に気づく。イラっとくる自分、ムカッとくる自分に気づく。そして、その怒りの感覚、色、形、動きを静かに見つめる。それがどんな思考を餌として自らを養おうとするのか、あるいはじっと見つめるうちに、それがどのように変化し、静まり、消えていくのか……。
このようにあなたが、受け入れ、味わい、理解することで、初めて怒りはきれいに消化される。

注意深くなれば、あなたは日常の至る所で、小さな怒りの兆し、つまらない苛立ちや不快感が、自分の内に頻繁に現れることに気づくだろう。
誰かが約束の時間に遅れた時、足元の何かに躓いた時、相手の表情が曇った時、料理が不味かった時、口の中を噛んだ時、誰かが不意に目の前を横切った時、前の車がもたついた時……。
いつも怒りが湧くたびに、何度も何度も気づきを重ねれば、次第にあなたは怒らなくなるだろう。
それがただただ不毛で、破壊的で、人生をひたすらつまらなくすることに気づくから。