2019.07.18源庫

「わからない」こと

日々、わからないことばかり。
今日は何が起きるんだろう?
体調がすぐれないのはどうしてだろう?
仕事はうまくいくんだろうか?
これからどんな出会いがあるんだろう? いい出会いはあるんだろうか?
これから先、自分の人生はどうなっていくんだろう?

わからないと、あれこれ想像する。そして、わくわくするより、心配したり、不安になったりすることがとても多い。
で、警戒し、用心して、ああだこうだと予想する。あれやこれやと計画を立てる。

来週の予定、今月のノルマ、一年後は部署異動がありそう、定年まで〇年だ、老後の蓄えはどれだけ必要、最後は施設に入って……。
本当は、そんなこと、誰にもわからない。全部、頭の中だけのこと。でも、そんなことでいっぱいになっていると、実際に、わかっただけ、考えただけの人生になってしまう。果ては、ほんのちょっとの想定外にも過敏になり、容易く動揺し混乱するようになってしまう。



一方で、わかったつもりで生きることのつまらなさは、心の底では誰もが感じている。これから先、何が起きるかわかってるのなら、プラン通りに生きると決め込んでいるのなら、これ以上、生きていくのは退屈でしかない。
俺の人生はこういうもの。私の人生はこんな感じ。そう決めた瞬間、冒険は終わり、防御と消費の日々となる。

わかるとは、分かる。
全体から分かたれて、“自分”の中で固まること。
常に動いていて捉えどころがない生きた世界を、解釈や合理化で何らかの形に閉じ込めること。
実のところは、自分が“わかっていること”なんて、どこまでいっても“見方”、“考え方”でしかない。常に現実は、個人の理解をはるかに超える。
なのに、わかることを求めるあまり、世界のダイナミックな流れから自分を切り離して、どんどん澱んでいく。

確かであること、わかっていることは、死だ。
確実であるとは、自由ではないということ。
可能性が極めて狭く限定されているということ。

わからないことを恐れない。
わからないことを避けようとしない。
わからないままに、身をまかせ、信頼し、落ち着いている。
未知にゆだね、ちっとも不安でない。

そんな人に、人生はとびっきりの贈りものをくれる。