「本」を読む。「本」と響き合う。
西荻窪にある行きつけのカフェバーのマスターから、素敵な本を紹介してもらった。
本のタイトルは、「火の昔」。
著書は、民俗学者の柳田國男さん。昭和19年に出版された本で、日本人の文化や暮らしと「火」とのつながりを、歴史や風土、日本人の精神性の観点から光を当て、論じている良書だ。
この本自体は復刻版として現在も流通しているようだが、今回、私が手に入れたのは、昭和21年に刊行されたもの。
印字された紙そのものに、その本が経てきた時間の痕跡が残っているものを手に入れたかったので、あえて古いものを探して取り寄せてみた。
届いた本を早速開いてみると、紙質といい、字体といい、なんとも趣がある。
本は「読むもの」という観念が染み付いているが、物理的な「もの」として本に“触れてみること”で、初めて感じる“なにか”が、確かにある。
昭和21年刊行のその本は、旧仮名遣いで綴られていた。
今の時代の私たちにはすっかり馴染みがなくなってしまった昔の日本の書き言葉は、当然のことながら、時間をかけて丁寧に読み進めることが求められる。
けれどもそれがまたすごく良くて、それはつまり、「わかったような気」になって読むことができないのだ。
じっくりと、丁寧に本に向き合う。
そこに綴られているひとつひとつの言葉に、意識的になる。
すると、言葉の背後に息づく著者の精神が豊かに蘇り、目の前に広がってくる。
読む側と、著者とが、本という媒体を通して、真摯に対話するような時間。
そんな読書の在り方を、しみじみと体感できる本なのだ。
同時に、古い日本語の「音」が、自分の頭と体の中に響くことの豊かさに、改めて気づく。
「本を読む」という行為は、著者の思索や精神を受け取り学ぶということだけでなく、綴られた言葉の「音」を、自分の中に通すことで、なにかが動き、流れることもあるように感じる。
太古の昔には、言葉や文字は、魔術的な力を持つものとして捉えられていた。
すべての言葉には「音」、すなわち周波数(エネルギー)があることを思うと、それは決して単なるお伽噺ではないようにも思われる。
それを受け取る「体感」を、この古い日本語の書物は、まっすぐに届けてくれる。
昭和21年の刊行当時、この本は「定價拾貳圓」だったそうだ。
80年近い時を経て、さまざまな人の手に渡ってきたこの本が、今の時代の私の元に届いたご縁と不思議にも思いを馳せながら、日本人の中で連綿と息づいていた「火」との豊かなつながりを、じっくりと味わってみようと思う。