『トート・タロット』の魅力~直感を開くタロット
私が使っているタロットデッキは、アレイスター・クロウリーの『トート・タロット』である。
私はこのタロットを愛しており、タロットの方からも使うたびに愛を感じる。自分の知りたいことを占っても、クライアントを占っても、トート・タロットがもたらすメッセージには、いつも、その人間への愛と信頼が溢れている。
このタロットは私にとって、楽しい話し相手であり、実に頼もしい商売道具であり、何より大切な友達である。

『トート・タロット』
一般に、タロットカードと言えば、何といっても有名なのは、アーサー・エドワード・ウェイトが作った『ウェイト版タロット』である(英・ライダー社から発売されたことから『ライダー版』とも呼ばれる)。小アルカナにいたるまですべてのカードが絵札で描かれ、初心者にも意味がわかりやすいとされるこのタロットカードは、多くの占い師やタロッティストが愛用しており、タロット占いの入門用のデッキとして薦められることも多い。ここから派生したいわゆる「ウェイト版系列」のカードも含めると、かなり多くの占い師が基本のデッキとして使用しており、タロットカードと言えばウェイト版、と言うほどに認知されている人気のカードだ。

『ウェイト版タロット』
私も、ご多分に漏れず、初めて使用したタロットカードはウェイト版であった。タロットの構成、基本的な各カードの意味、スプレッド、カードに向き合う姿勢、そうした基礎はウェイト版に触れながら学んだ。が、使っていて、このカードに、どうにもしっくりこないものを感じるようになった。カードの絵柄や、一枚一枚のカードのメッセージに、何とも硬い“はめ込まれる”ような感覚を覚えるようになったのだ。そこからもたらされるメッセージには、常に何らかの「正解」や「善悪」の観念がベースにあり、カードから「正しい道」や「得策」を提示、指示されているような印象を受ける。端的に言えば、即物的、表層的で窮屈なのである。
ウェイト版に馴染みきれなかった私は、それから、『マルセイユ版』、『OSHO禅タロット』などいくつかのタロットカードに触れたのち、『トート・タロット』と出会った。
“出会った”と言っても、トート・タロットのデッキ自体は、タロットを学び始めた当初から手に入れてはいた。10代の頃から愛聴していたデヴィッド・ボウイの曲『Quicksand』の歌詞に、トート・タロットの作者である魔術師アレイスター・クロウリーの名があることから、いつか使ってみたいデッキとして購入していたのだ。
だが、このデッキ、買ってみたはいいものの、ただならぬエネルギーを発している。恐いような、魅惑的なような、何か鮮やかすぎるような、とにかく強烈なエネルギーである。下手に軽い気持ちで開封すると大変なことになるような気がして、長らく手を付けられずにいたのだ。
それがある日、ふと本棚の一隅に置かれたままのトート・タロットに目をやった時、「今日、開封すべし」という明らかな感覚があった。私は心を静めて封を開け、箱からカードを取り出した。そして十分にシャッフルし、最初の一枚を無心で引いた。それは、「カップのプリンセス」。

「カップのプリンセス」
当時、トート・タロットの入門書は乏しく、初めて使うデッキでもあり、詳しいカードの「意味」はわからない。が、それゆえに、引いたカードの表情と声がダイレクトに伝わってくる。
そのカードは、親しみに溢れていた。そして、私との出会いを素直に純真に喜んでいるのが明らかに感じられた。
嬉しかった。このタロットと、とても仲良くなって行けることが疑いなく感じられた。私は微笑んでいた。
こうして、トート・タロットとの付き合いが始まった。
使い込むうち、私はこのカードが実に“生きた”カードであり、極めて自分と相性がいいことに気づいた。そして、なぜ『ウェイト版』に不満を覚えたのかが改めてはっきりした。両タロットを比較すると、いくつかの明確な違いが浮かび上がる。
まず、トート・タロットは動的だが、ウェイト版は静的である。
トート・タロットはどのカードの絵柄を見ても、ダイナミックな躍動感がある。対して、ウェイト版はトート・タロットに比べると、静かに整い、“止まって”いる。

上段『ウェイト版』 下段『トート』(※同じカードで比較)
この違いは、両カードから得られるメッセージの強度と勢いに直結する。
トート・タロットからのメッセージは“強い”。人によってはこの強さが、トート・タロットを敬遠する一因にもなっている。カードが湛える圧倒的なエネルギーに、絵柄を見ただけで、「怖い」と言う人も時にいる。しかし、私はこの強さがとても好きであり、使っていると意識や心身が活性化するような感覚を覚える。実際、少々気分や身体が重い時に、トート・タロットを使うと、心身の循環が良くなり、重さやだるさが消えてしまったりする。
動的なトート・タロットと静的なウェイト版。この違いは、カードからメッセージを得る際にも、対照的な趣を見せる。
躍動感があり強烈なトート・タロットでは、カードの方から積極的にこちらにメッセージが来る。一方、ウェイト版の絵柄は、“止まって”おり観察しやすい。それゆえに、ウェイト版を使う際は、自ずと分析や解釈に陥りやすい。単純化して言えば、トート・タロットではメッセージを“受け取り”、ウェイト版ではメッセージを“読み解く”。言い換えると、トート・タロットではメッセージは“来る”のに対し、ウェイト版ではメッセージを取りに“行く”。この違いは、タロットを使う際には精度と深度において決定的な差となるように私には思える。
タロットは“直感のツール”である。直感とは、その字の通り、直に感じるものであり、受け取るものであり、来るものである。分析や解釈をし、読み解きに行く姿勢は、直感を妨げる上に、占者の主観や価値観や気分が混入しやすい。また、学んだ知識や解釈に引っ張られて、カードが告げる無垢な真意を読み違えることにもつながる。こうしたカードとの向き合い方は、タロットから得られるメッセージを浅くし、歪ませ、貧しくする。これでは、人生相談やカウンセリングにはない、タロットだからこそもたらされる豊かさが台無しである。
こうした理由により、カードから得られるメッセージの純度、精度、深度は、トート・タロットとウェイト版では大きく違ってくる。これには、両タロットにおけるもう一つの違いも関わってくる。
それは、トート・タロットは“象徴的”、ウェイト版は“説明的”である、という点だ。これについては、それぞれの小アルカナのカードを比べてみればわかる。

ワンド5、カップ3、ソード9(上段:『ウェイト版』、下段:『トート』)
両タロットの「ワンド5」「カップ3」「ソード9」を並べてみた。
一見して、ウェイト版の方が明らかにわかりやすい。ワンドの5はウェイト版において、「争い、競争、ぶつかり合い」という意味、カップの3は「楽しさ、(仲間との)喜び、祝宴」という意味、ソードの9は「苦悩、不安、悲嘆」という意味を持つカードだが、まさに棒を持って争う5人の男性、カップを掲げて踊る三人の女性、ベッドで頭を抱える人物の姿が、その様を具体的に説明している。だが、そのイメージが具体的であるがゆえに、どうしてもこの絵柄の説明の範囲内にメッセージが制約されやすい。
対して、トート・タロットでは、ワンドの5では前面の大きな杖の背後にくすんだ色の4本の杖が描かれ、カップの3では蓮の花より流れ出た水がザクロの実を潤し、三つのカップから豊かにあふれている。ソードの9では、9本の錆びついた剣と、血や涙のような液体が滴る様が描かれている。これらのカードは、人物の具体的な行動や様子ではなく、象徴的なモチーフや色彩のみが用いられているため、スプレッドを展開し、絵柄が現れる都度、多彩で新鮮なイマジネーションが自ずと湧いてくる。
象徴によってもたらされる情報は、説明によるものより、はるかに自由で、豊かな広がりとバリエーションを持つ。
トート・タロットには、この他にも、カバラや占星術との照応、ジオマンシー(土占い)や易の卦とのつながりなど、様々な側面から、多様で深い読解ができるような手がかりがふんだんに散りばめられている。
トート・タロットは躍動的で、我々の直感にダイレクトに響いてくるタロットだ。このタロットを使っていると、自ずと、意識が澄み、感性が研ぎ澄まされ、情報や分析によるよりもはるかに正確で頼りになる、直感という“人生の羅針盤”を手に入れることになる。
実際、逢いことばのタロット講座を受講する人の多くが、「日常において、あれこれ考えなくとも、自分にとって必要な物事や、縁、流れといったものがわかるようになり、ぐんと生きやすくなった」と実感している。
“探さずとも、答えの方から来る”。
トート・タロットと仲良く付き合うことを通して、そんな本来の自然な生き方を取り戻すことができるのだ。
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