生を決する“二つの善”
ふと、善というものについて考えた。
私はそもそも善悪という観念が好きではないし、そうした観点で物事を捉えることも殆どしない。それは、人間社会における善悪とはひどく人工的で、個の自然な発現を抑えつけることが気に入らない、というのが一番の理由である。あるいは、人それぞれが善悪を掲げて他者に向き合う時に現れる攻撃性や独善性が好きでないのもある。
だが、本来、善とはその人が生きる上で大切なもの、喜ばしいもの、生の質を向上させるものであると捉えるなら、私にとっての善もあるだろう、それは何であるのか? と、なぜか不意に考えてみたのだ。
そして、即座に出てきた言葉は、以下である。
「私にとっての善とは、自然な生命力をいきいきと運動させるもの」
簡単に言えば、心身がのびのびと解放され、元気が出てくるものである。体がほぐれて活力が湧き、心は安らぎ大らかになり、頭がすっきり冴えてくる。それに資するのであれば、何であれ、善である。形としては、本心からやりたいことをやり、本当はやりたくないことはやらない、という徹底的に正直に生きる姿勢が、善い生き方ということになる。
要は、私は明るく元気でいたいのだ。落ち着いて安らいでいたいのだ。楽しく頭や身体を動かしたいのだ。
そうしてみると、世間一般で言われる善の中には、私の善と衝突するものが相当にある。
常識的に生きること、社会のルールを守ること、皆と同じく決められた行動をすること、人から認められ評価されること、後ろ指を差されないこと、社会的な信用を勝ち得ること等々。
これらの「善」は、往々にして、人の自由を奪い、自然な心の欲求を抑え、心身の活力をそいでしまう。つまり私の善は実現できなくなってしまう。
しかし、こうした世間的な善は間違いか?不要か?と問われれば、多くの人はそれは正しく必要なものだと答えるであろう。なぜなら、その善を履行しないことは、即、自分と周囲の安定を脅かし、己の人生を危険にさらす可能性が大いにあるからだ。
私の善と世間の善。それは全く異質で、ある意味、正反対ともいえる。
私の善は、内から湧き上がるもの、世間一般の善は、外から与えられたものである。故に、私の善は、自分が生きているという圧倒的な実感をもたらす起爆剤、世間の善は、社会や人間関係における身の安全と生活の安定を保つ防壁となる。どちらがいいというものではない。
一方は、心身の活力を増進するが、社会的な安寧を脅かす危険がある。他方は、他者との摩擦を減らし生存を担保するが、自然な心の動きや自由な考えは抑え込まれる。
言うなれば、私の善は“生きるための善”、世間一般の善は“死なないための善”といったところかもしれない。
日々、様々な人が、仕事、恋愛、家族の問題、人間関係など、様々な課題を携えて、私のセッションを受けにやってくるが、そこで常に核心にあるのが、この“二つの善”のせめぎ合いである。
誰もが、本当の気持ちや望みを心深くに抱えている。それを素直に表現することは、相手の善や世間の善としばしばぶつかるものである。その摩擦に向き合うのは、苦しい。痛い。それで、何とか自分をなだめたり、説得したりして、調和を図ろうとするが、一時的には安定しても、しばらくすると再び摩擦と葛藤が浮上する。それは、自分独自の生の脈動を封じ込めているからだ。心臓が動いている限り、その脈動が止まることはない。何らかの形で、それは常に外に出たがるのだ。
我々は、生まれた時から、自分の存在の根拠を外に置くよう馴らされている。「他者の承認」や「社会的な役割」で自分を測ることがあまりにも当たり前になっており、それが自分本来の生の脈動といつの間にかすり替わっている。そのため、他者や社会との間に摩擦を起こすことは、存在の危険に直結するように感じられるので、“死なないための善”がいつも前面に出るのだが、すでに言ったように、生の脈動は、生存している限り消えることはなく、“生きるための善”として突き上げてくる。人は何とかこの二つに折り合いを付けようとあがくが、それが完全に調和することは至難で、生涯を通して、二つの善の狭間で身悶えする。
不全感から解放され、この葛藤から脱する突破口は、ないのか?
ある。それは正直さという“覚悟”だ。
結果がどうなろうとも、たった一人で孤立しようとも、生の脈動を引き受けるという、エネルギーの楔を己の内に打ち込むことだ。
それは、他人や社会の作ったレールを下り、自分独自の生を創造するという、圧倒的な能動性である。また同時に、あらゆるエゴを放棄して本当の心の声に自らを明け渡し、流れにゆだねるという、完全な受動性でもある。それを実現するほど、間違いなく人生は活力にあふれた清々しいものになっていくが、その過程で茨の道を通らないわけにはいかない。
“生きるための善”は、常に意識的であることと運動を求める。
“死なないための善”は、過去や他者を踏襲し、静止することを求める。
どちらも選べる。そして選んだ“善”がもたらす相応の果実を、人は生涯味わいながら生きていくのだ。