2023.09.08雪水清花

‟名前”を超えて生きる

社会にはさまざまな職業があり、それを表す名称や名前があります。
サラリーマン、教師、販売員、医師、美容師、介護福祉士、デザイナー、公務員、◯◯店員、etc. ……。

自分が携わる職業の名前や、肩書き。
私たちはそれによって、「自分がどんな人間か」を、外側に向かって表現します。

それぞれの名前には、それぞれのイメージがあり、人によって印象や捉え方が多少変わるかもしれませんが、おおむね「何をしている人なのか」ということは伝わります。
そして、自分自身でも、「私は◯◯を生業としている者」として自己認識しながら、自分という人間を他者に理解してもらうための“ひとつの拠り所”として、その名称を名乗ります。

「“仕事の名前”は、自分のアイデンティティの一部」

そうやって自分を、その名前や肩書きが意味するものに嵌め込みながら、他者に対しても同じように「相手は何者なのか」を名乗ることを求めていきます。

「将来、何になりたいの?」
子どもの頃、そう聞かれた時に、私たちは世の中のいろいろな職業の名前を思い浮かべました。
ケーキ屋さん、お花屋さん、パン屋さん、学校の先生、歌手、お医者さん、消防士、飛行機のパイロット、犬の訓練士、科学者、サッカー選手、プロ野球選手、……。
お花、パン、ケーキ、車や飛行機、動物、サッカーや野球など、その時の自分が大好きなものや興味のあるものに携わりたいだけで、
それを仕事にするとはどういうことなのか、そもそもどんな仕事があるのか、そんなこと、正直言ってあんまりよくわからない。
それでも、その「大好きなもの」だけは自分でわかっているから、それを一生懸命、当時知っている“仕事の名前”に当てはめようとしていたのかもしれません。
大人から「将来」と聞かれても、子どもの頃の私たちは、常に「今」好きなもの、「今」興味のあるものを、答えていたようにも思います。

一方で、「何になりたいのか、よくわからない」と感じたこともなかったでしょうか。
たとえば、「きれいな石が好き」とか、「妖精に会いたい」とか、「シャチみたいに強くなりたい」とか。
もしかしたら、「ハリー・ポッターのような魔法使いになりたい」とか、「蝶々みたいに、きれいにヒラヒラ飛んでみたい」というのが、その時本当にやってみたい、確かな感覚だったかもしれません。

「石が好き」と言うと、とかく大人は「博物館の学芸員という仕事があるよ」とか、「鉱物の専門家になりたいのね」とか、「パワーストーンのお店で働きたいの?」とか、どうしても“具体”にしたがりますが、
そうではなく、ただ、「きれいな石が好き」なだけで、きれいな石を持っていること自体が嬉しくて、ワクワクして……。
それを「将来」や「職業」と結びつけて考える思考自体が、子どもの頃にはなかったのではないでしょうか。

仕事の名前や肩書きを、「重要なアイデンティティ」としたがる社会の中では、「何がしたいのかわからない」ことを、とかく責めがちです。
でもそれは、当の本人にとって「よくわからない」のではなく、ただ、「うまく表現できない」だけなのかもしれません。

なぜなら、自分が本当にしたいことは、いまの世の中で通用している“名前”なんかに当てはまらないような、まったく新しい「なにか」かもしれないからです。
そしてなによりも、「自分が何者であるか」は、一般的な名称では名乗りきれないほど、大きな「なにか」を表現することだからかもしれません。

自分が本当にやりたいことや好きなこと、そして自分自身を、世間への説明のために「名づける」ことから離れてみたときに現れる“景色”が、必ずあります。
それは、自分だけが感じられる、微かであると同時に、しっかりとした感覚。
名前や名称を超えたところに確かに存在している、自分にしか見えない、自分。

“自分自身”を、職業の名前や肩書きを含めたあらゆる小さな“属性”や“枠”に当てはめることから解放したときに、魂は、徹底的に自由になります。
そしてそれは、正々堂々、真正な自分自身になることです。

今、大好きなことをワクワク追い求め、夢中になって没頭し、ひたむきに続けることが、いつしか日々のかけがえのない営みとなり、
今はまだ名も知らぬ自分ならではの仕事となり、それを通して人々と、そして世界と繋がっていく。
それこそが、名前を超えた、本当の仕事、生業なのではないでしょうか。

「名づけること」から自分を解き放った時に初めて現れる、大いなる自由。
その中で、あなたは、どんな自分を表現していきますか?