2020.09.06源庫

内面を生きる 世界をつくる

住んでいる家。自分の部屋。家電品や様々な道具。食べるもの。使うもの。
家族。友達。パートナー。同僚。
街の風景。道行く人々。看板。ポスター。スマホやパソコンの画面。

あなたがいつも見ているもの。意識を向けているものだ。
人は外側ばかりに目を向けている。

住む場所、共に暮らす相手、職業、収入、社会的評価……。
人とのやりとり、様々な行動、今何をするか、どこへ行くか、どこで過ごすか……。
全部全部、外側だ。

外側であくせくし、外側で試行錯誤し、外側でプランを練り、外側を反省し、改善し、豊かになろうとする。
それは当然。無理もない。なぜなら、見えるもの、聞こえるもの、触れるもの、考えを向けるもの、そのどれもが外側にあるんだから。
外側を変えないことには、外側を何とかしないことには、暮らしは一向に向上しないし、楽しい出来事も豊かな生活もやってくるはずがない……。そう思って、今日も外側の世界と格闘する。

しかし、外側でいくら頑張っても、なかなか安らぎも充実感も喜びもやって来ない。上手いこと結果を出し、望んでいたものや環境を手に入れたとしても、達成感や満足感はほんの束の間。たちまち退屈や物足りなさを感じ始め、ほどなく、お馴染みの不安や焦燥、不足感がやってくる。

我々はいつもどこか焦っている。
いつも何かに悩んでいる。
いつも何かを恐れている。

多くの人が、世の中や、組織や、他人や、経済状況や、様々な出来事に押しつぶされて、自分という存在を小さく小さく萎縮させている。本当は、もっとのびのび生きることを望みながら、存分に生命力を感じることも発揮することもないままに、死んだように毎日を消費し、そうして人生が終わる。
一方、動物や植物は、ただ生まれ、気ままに生き、自然に死んでいく。なのに、人間はずっと不自由で不満で縮んでいる。

これは何かがおかしい。明らかにおかしい。
そのおかしさの根本は、世界の捉え方にある。

我々は、外側に大きな世界があり、その中の小さな個人として、自分が存在していると信じ込んでいる。
外側の世界や宇宙は無限に広く、そこには未知なるものが無数にある一方、内側の思考や感情、感覚といった世界は、自分だけが知っている個人的なちっぽけな世界だと思っている。

しかし、真実は逆だ。
内面は、外側の世界なんかより、はるかに広く深く面白く、すべての刺激、すべての恵み、すべての豊かさ、すべての可能性が生まれ出で、そして本当に展開する舞台なのだ。
我々は、この時空間など生きていない。ある時代やある場所など生きていない。それは内面の投影なのだ。大体、「時間」や「空間」というもの自体が、内面が作り上げた仕掛けに過ぎない。内面がなければ、宇宙も世界も国も世間も会社も学校も家族もパートナーも存在すらしない。

実のところ、内面こそが我々が真に生き、作り、遊び、味わう世界そのものなのだ。にもかかわらず、我々は自分が外側の世界の中で生きる小さな個人だという、まるで逆さまな観念を持っているために、本来、自分の内面の投影にしか過ぎない外側の「世界」に汲々とし、思考の幅を狭め、感情は押しつぶされ、小さく小さく窮屈に苦しくあえいでいるのだ。
嫌なことが起きるのではないかと恐れ、出来事や人の言動に振り回されるのは、自分で作り上げた物語の奴隷になることだ。まさに自縄自縛。こんな馬鹿げたことはない。

常に、要は内面なのだ。内面を生きる。内なる宇宙を思い切り生きるのだ。
外側なんてどうでもいい。人の反応や社会の状況などどうでもいい。
好きなことは好き、嫌いなことは嫌い。自分の感情に正直になる。喜びも悲しみも素直に認める。「いい、悪い」よりも、心地よいかどうかが羅針盤だ。自分の欲求や情熱を、“外側”にいる他者に説明する必要も、わかってもらう必要もない。

ただひたすら素直。ひたすら正直。ひたすら純粋。
そうなった時、あなたの思考、感情、感覚は冴えわたる。内面からどんどん雲が晴れていく。全身にかかっていた圧力が消え、手が伸び、足が伸び、あなたは拡大し始める。
今まで知らなかった、内面の広大な世界が現れる。次々にアイデアや意欲が湧いてくる。眠っていた無限の可能性が開かれる。
そして、外側と内側のエネルギーの流れが逆転する。あなたの本来の、そして本当の活力が外側に放たれ、投影される。
世界の景色が変わってくる。起きる出来事が変わってくる。人々の反応が変わってくる。

いまや、あなたは外側の世界に押しつぶされたり振り回されたりしない。
あなたが世界をつくり、あなた自身の存在、生命そのものを楽しむのだ。