2021.08.02源庫

本物の言葉

人はみんな違った場所で生まれ、違った出会いと別れを経験し、それぞれに悩み、傷つき、学び、気づき、立ち上がって歩いてきたし、今日もまた歩いている。
人の数だけ物語があり、思いがあり、言いたいことも、言えることも、人の数だけある。本来、その人だからこそ見出したこと、その人にしか表現できないことを誰もが持っている。
しかし、その自分だから言えること、そして本当は心から表現したいことを口にする人は、必ずしも多くない。
これはなぜか? その理由の一つに“根拠”というものがある。

たとえば、あなたが、何か大切だと感じたこと、素敵だと思ったことを口にする。あるいは文字にする。すると、往々にして返ってくるお決まりの反応がある。
「そんなのお前の思い込みだろ?」
「根拠はあるの?」
「エビデンスは?」
しかし、納得できるだけの“根拠”というものなど、実はどこにもない。これはあなただけではなく、世界中の全員に言えることだ。何かのデータや事象や、誰かの言葉を引いてみたところで、「じゃあ、それはなぜ?」と繰り返し問われ続ければ、程なくネタは尽きてしまうし、拠って立つ前提が違う相手から「そんなものは信じない」と拒絶されれば、為すすべはない。根拠などというものは、いとも簡単に崩れ去ってしまう、実にいい加減なものなのだ。
だが一方で、ある種の根拠が「信頼できる根拠」としてまかり通る場合がある。それは、専門家や有名人や公的機関といった“権威”によって提示された場合、または、社会や集団の間で醸成された“空気”に適ったものである場合、そして何らかの数量的データとして示された場合だ。実のところ、そこで示される“根拠”の胡散臭さは何一つ変わらないし、いくらだってそれに論駁したり異を唱えたりし続けることはまったく可能だ。にもかかわらず、「権威」や「常識」、「データ」を振りかざされると、大多数の人は、いとも容易く納得し、支持してしまう。
しかし、自分の頭でものを捉え、そして何より健全なハートでものを感じる人は、なびくことなく、自分を生きようとする。
「権威が言うからってなぜ信頼できるんだ?」
「常識がどうだろうと、私は自分の望みを知っている」
「データがどうしたの? なぜそれが多い(少ない)といいの?」
「そもそも、その調査は本当なんだろうか?」
どこまでも自分の頭で考え、自分の心で感じようとし、自分の思いや考えを率直に表現する。
もちろん、彼らにも人を説得する“根拠”があるわけではない。彼らは、自分のすべての経験、出会いと別れ、笑いや涙と共につかみ取ってきた、生きがいと情熱、そして自分と向き合い真剣に深めてきた思索と気づき……つまり己が“生身の人生”、それだけを携えて話し、書き、表現しているのだ。実は、この“生身の言葉”だけが価値を持つ。その人がその存在をかけて、正直に放つ言葉だけが、心を打ち、それに触れた者に力を与えるのだ。

だが、殆どの人はここで恐れる。
「誤解されたらどうしよう」
「うまく話せなかったらどうしよう」
「裏付けがないと聞いてもらえない」
「こんなこと考えてるのはどうせ自分だけ……」
こうなると、もう言葉は出てこない。彼らには、自分が本当に思い、感じることを表現すること、すなわち生きることよりも、自分の本心を殺してでも、人から受け入れてもらい、帰属させてもらうことの方が大事なのだ。そして恐れを抱えた者は、いつも人の顔色や空気をうかがいながら、他人や世間の言葉をつぎはぎして、「自分の意見」を無自覚に捏造し始める。しかし、そんな言葉は当然のことながら、重みもなく芯もなく、誰の心にも残らない。自分自身の心にさえ。彼らは自ら“替えの利く”顔のない有象無象に成り下がっていくのだ。そして当然ながら、自分自身の命を抑圧すれば、生はどんどん萎縮する。人生は空しく虚ろになり、心も体も壊れていく。

あなたは誰だ? あなたなのだ。
根拠なんか探さずとも、あなたには、あなただけが味わってきた、その人生がある。ふるさと、家族、友達、恋人、あらゆる喪失と獲得、失意と希望、そのすべてが一点にぎゅっと収斂した頂点、それがあなたなのだ。そして何よりも、今ここで震え、脈打ち、波打っている、その命があなたなのだ。
あなたが、すべてを正直に開き、まっすぐに真剣に話す時、それがどんなものであれ、あなたの言葉は本物になる。